映画評353 ~ 20世紀少年 最終章/ぼくらの旗 (09.8.29)

今回は「20世紀少年 最終章/ぼくらの旗」

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待ちに待った最終章である。

主演は、唐沢寿明
共演は、豊川悦司、常盤貴子、平愛梨、香川照之、古田新太、黒木瞳、木南晴夏
その他、石塚英彦、宮迫博之、佐々木蔵之介、中村嘉津雄、石橋蓮司など
あと、佐野史郎、藤木直人、森山未來、高橋幸宏、小池栄子など、出演者だけでも相当なものだ。

<ストーリー>
「ともだち歴3年」の2019年、世界は世界大統領として君臨する「ともだち」に支配され、殺人ウイルスがまん延する東京は壁で分断。都民の行動は完全に制限されていた。そんな中、カンナは反政府組織として武装蜂起する一方、「血の大みそか」以降、行方がわからなくなっていたケンヂが突然現われる。そして、「ともだち」の正体がいよいよ・・・


さて、今ちょっと悩んでいる。

感想をどう表現しようか・・・・では、もちろんない。

評価を、「D」にするか「E」にするか、だ。

ストーリーだけなら、「C」程度でちょうどいい。
感想は、すでに第一作・第二作で書いたのと、まったく同じ。
荒唐無稽な設定はいいのだけれど、そのどれもが「ガキの発想」の域を出ていないにもかかわらず、スケールだけは意味なくデカい。

問題は、「『ともだち』っていったい誰だろう」と、ここまで思わせぶりな引っ張りをしておいて、あの結末はないだろう、ということだ。


ここからは、ネタバレ全開でいきます!

だいたい、「カツマタ」って誰だ?
第一作・第二作に出てきていないヤツ(実際には、文集?の中でちょこっと出てきているが)を、物語の主人公なんかにするな!

ネットでの感想を見てみると「『ともだち』が誰かなどどうでもよくて、ストーリーそのものを楽しむべきだ」と書いているヤツがいたけど、『ともだち』が誰でもいい、なんて考えている時点で、何も考えていないのと同じだろう。

それはいいとしても、この設定はおかしい。

最後の場面で、『ともだち』がマスクを取ると、そこには「フクベエ」がいた。
しかし、実はそうではなくて、『ともだち』は「フクベエ」に成りすました「カツマタ」くんであることが、最後の最後にわかる。

どうして、成りすましていたのか。
実は「フクベエ」は、小学校5年生の時に死んでいるからだ。
当時、フクベエを含む同級生にイジめられていたカツマタくんは、代わりにフクベエに成りすました、というわけだ。

しかし、こういうことは、ゼッタイにあり得ない!
はっきり言うが、ゼッタイに、だ!

「カツマタ」くんは、泥棒に間違えられたせいで、同級生から「忘れられた存在」となってしまう。
つまり、「もう死んだこと」になっているわけだ。
だから、皆から忘れ去られてしまった、ということらしい。

ここの時点で、すでにおかしい。
例え、皆から無視されたとしても、完全に忘れ去られることなどない。
「死んだことになっている」のと「死んだ」のとは、まったく違う。
いくら存在感のないヤツでも、誰かが覚えている。
そんなものだ。

でも、まあここまではあり得るとしよう。
しかし、そのカツマタくんが、フクベエに成りすますことだけは、ゼッタイにあり得ない。

この前提は、「フクベエが小学校5年生の時に死んだから」ということだけど、いくら小学校時代のこととは言え、同級生が死んだのであれば、普通は覚えている。
私などは、誰が転校したのかも、だいたい覚えている。
少なくとも、名前を言われれば、すぐに思い出す。
特に、人の死なんて、小学生にとっては相当大きな出来事のはずだ。

しかし、あり得ないのは、これだけが理由ではない。

カツマタくんとは違い、このフクベエには「友達」がいたからだ。
少なくとも、カツマタくんほど存在感がないわけではない。
そんな人間が、同窓会に出てきたら、皆ビックリするに決まっている。

つまり、同窓会で、カツマタくんとフクベエを見間違えることなど、ゼッタイにないわけだ。
たとえ、見かけがわからなくても、ちょっと話をすればすぐにバレる。
だから、カツマタくんがフクベエに成りすますことなど、100%あり得ない。

さらに言えば、友達のいないカツマタくんが、オッチョの昔のことなど知っているはずがない。
だって、遊んでもらえなかったわけだから。
いくら、ケンヂたちに付きまとっていたとしても、一緒に遊んでいない人の言ったことややっていることなど、想像もできるはずがない。

こんなバカな設定を、よくも思い付いたものだと思う。
この最後の最後のドンデン返しによって、物語のすべてがぶち壊しになっている。

もう、それだけ。
せっかく、いろんなキャストが出ているし、それぞれがそこそこの存在感のある演技をしている、というのに。

まあ、武蔵とロンブー敦は下手くそだったけど。
高橋幸宏やダイムモンド☆ユカイなんて、はなっから演技なんかしてないし。

ストーリーについてなんて触れる気にもならないけど、あえて言えば・・・

あの世界を滅ぼすウイルスにしても、黒木瞳演じるキリコが、自分の体でワクチンを試していた時に、「潜伏時間は12時間」と言っていたはずなのに、映画の後半で、そのウイルスを浴びた人たちは、ほとんど即死していた。
さらに、キリコが開発に成功したワクチンも、かなりの副作用があると言っていたのに、それを投与したカンナは、何の異常もなかったし。

もう、すべてがムチャクチャ。

結局のところ、評価をどうしようかと悩んでいるのだけど、ここまで期待して楽しんだ映画も、なかなかないので、結論としては、ギリギリのところで「D」に留めておきます。

場合によっては、原作を読もうかと思っていたけど、やめときます。

なお、原作でも、『ともだち』はフクベエで、映画と違うのは、実際にフクベエが『ともだち』を演じていて、途中で死んだので「カツマタ」くんが後を継いだとのこと。

むしろ、原作通りでやった方が、まだよかったんじゃないの?


(追記)

「20世紀少年 最終章」の続き。

昨日は、とにかく「何だよ、これは!」との思いが強すぎて、イライラしながら書いていたのだけど、もう一度冷静になって振り返ってみる。

思い出してみて、もっとも「これはあり得ないだろう」と思う場面は、やはり同窓会の場面。

第1作では、ケンヂもケロヨンもマルオも、もちろんフクベエも、懐かしそうに話をしていた。
その時点で、どうして「フクベエって、死んだはずじゃあ・・・・」って言いだすヤツがいなかったのか。
だいたい、フクベエは小学校5年生の時に亡くなったはずなのに、どうして大人になったフクベエ(に扮したカツマタくん)を見て、「よお、フクベエ」などという展開になったのだろう。

「お前、誰だ?」
「オレはフクベエだ」
というやり取りがあったとしても、その時点でフクベエの死を覚えている誰かに指摘されて「ウソつけ!」で終わり。
そこまでの危険を冒してまで、わざわざ同窓会に出席する意味などないはず。

それとも、フクベエとカツマタくんは双子だったとでも?
それにしては、最後エンドロールの後に出てきたカツマタくんの顔は、フクベエの子供時代とは似ても似つかない。
生活環境が変わったから、と言うのであれば、その後大人になった時には、さらにわからないはずだ。
何にしても、「小学校5年生の時に亡くなっている」わけだから。

このことを含めて、全体的に、監督自身が「ともだちは誰か」ということに対して、いろいろと策を弄しすぎているきらいがある。

最終的に、「ともだち」が「カツマタ」くんであったとしよう。
そうすると、ヤマネに殺された「ともだち」のダミーって、いったい誰なんだ。

こいつは、単なるダミーではない。
オッチョが、銃を構えて目の前に現われた時、即座に立ちあがって「やあ、落合くん」と言い、「覚えているかい?」と昔の話を始めた。

つまり、こいつもオッチョやケンヂの昔の同級生でなければおかしい。
それとも、事前にいろいろとレクチャーをして、「オッチョはこういうヤツ、ケンヂはこう」とか、いちいち教えていたというのか?
たぶん、監督はそんなことまで考えていなかったのだと思う。

なお、原作では、この時点(オッチョが現れた時)では、まだ生きているフクベエだったということ。
こちらの方が、筋は通っている。

さらに、劇の前半で、オッチョが「もしかして、ヨシツネが『ともだち』かも知れない」という思わせぶりな場面がある。
話を混乱させようというこの手の手法は「あり」だろうが、その後の展開で、またまたこの監督はわけのわからないことをやっている。

「ともだち」が、中性子爆弾を積んだロボットを新宿に向けて発進させた時、そのロボットには、「ともだち」だと思わせる覆面をかぶった男がいた。
ケンヂが、このロボットを止めようとして、ロボットに侵入し、操縦室でこの男と対峙し、取っ組み合いをする。
そしてケンヂがロボットを横倒しにした後、出てきたこの男に対して、今度はオッチョが出てきて、その覆面を剥ぎ、「やっぱり、お前か」と言う。

その男・ヨシツネは「違う、オレはただロボットを止めようとしただけだ」と言い、信用しないオッチョに対して、ケンヂも「ヨシツネは『ともだち』じゃない」と言う。

この展開も、何気なく読んでいると何ともないようだけど、よくよく考えてみると、かなりおかしい。

ヨシツネは、「『ともだち』に会った時、薬を嗅がされて、覆面を被せられ、気が付くとこのロボットにいた」と言い訳をしている。
「ともだち」が、ヨシツネを犯人に仕立てようとした、ということにしたいのだろうが、ひとつ忘れちゃいないか?

ヨシツネは、ケンヂと組み合っているのだ。
その時に、一言「オレはヨシツネだ」と言えばいいだけ。
わざわざ、ケンヂと取っ組み合いをする必要なんかない。

もしかして、しゃべれなくなっていた?
だとしても、手は使えていた。
自分でも「ロボットを止めようとしていた」と言っているわけだから。
だったら、覆面を取ればいいだけ。
別に、頭から取れなくなっているわけではない。
オッチョが、簡単にヨシツネから覆面を剥いでいるわけだから。

つまり、監督が最後のクライマックスに持っていくために、余計な伏線を張ったのはいいけれど、そのために辻褄が合わなくなったことに気が付かなかったのか、あるいは「どうせ、気が付くヤツなんかいやしない」と高を括ったのか。
いずれにしても、ムダな場面だ。

細かいところで言えば、このロボットは「ともだち」が持っている操作ボックスでしか動かない、という設定のようだったが、実際には、ロボットの操縦室に「AUTO」と「MANUAL(?)」のボタンがあり、ケンヂもすぐに気が付いて、手動操作に切り替えている。
ロボットの発進以降、ずっとこのロボットの中にいたヨシツネは、いったい何をやっていたのか。
たぶん、監督自身も気が付いていなかったんだと思う。

ついでに言えば、ケンヂが「手動」に切り替えたことにより、ロボットは「ともだち」の操作ボックスでは動かなくなっているはずだが、ケンヂやオッチョの前に現われた「ともだち」が、操作ボックスのボタンを押すと、再びロボットは動き始めた。

いったい、どういう構造になってるんだ?
もしかして、「自動」と「手動」も、このボックスで切り替えられる、ということ?
そんな機械は、安全上問題があるので、普通はあり得ない。


それ以外にも、いろいろと思い出してきた。

「ともだち」が「まずは東京を滅ぼす」ということで東京に繰り出させた円盤で、ウイルスを撒き散らしていたのだけど、その数はたったの2基。
まあ、開発の都合上仕方がなかったのだろうが、それにしても、その2基が仲よく並んで飛び回っていたけど、東京っていっても広いぞ。
別々に飛び回った方が、効率がいいだろうに。

そんなことしてるから、オッチョや「13番」に撃滅させられてしまうんだよ。

あと、もしかしたら「笑わせよう」としているのかも知れないけど、見ていて「はあ?」と思わせた場面。

まず、ケンヂが壁の内側(東京側)に入ろうとした時、通行証を持っていなかったため、漫画家に作らせた偽造通行証で入ろうとした。
その時の名前が「ヤブキ ジョー」

いや、別にいいんだけど、ここの関所のシステムって、いったいどうなってんの?

それから、最後にケンヂが万博会場に現れた時。

ケンヂは、古いバイクに乗って登場するのだが、なぜか春波夫らがコンサートをしていた舞台に激突して、横転する。
別に、よそ見をしながら運転していたわけではない。
まっすぐ前に向かって、しかもゆっくりと進んでいき、そしてぶつかった。

どう見ても、「わざとぶつかった」としか見えないのだが、ケンヂは「あっ、いけねえ」みたいな態度を取った。
ここは、もしかして笑わせたかったのか?
何のために?
まったく必然性のない場面だと思ったのだけど・・・

どにかく、全体的にこの監督がやりたかったことが、よくわからない。
「原作とは違った展開」って大袈裟に宣伝していたけど、結果的にそれがすべて裏目に出ているようにしか思えない。

特に、「ともだち」の正体の部分は、完全な判断ミス。
だったら、最初から原作通りにしておけばよかったのに。

原作は、いったいどうなっているんだろう・・・・
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